FREEDOM〜気楽に生きたいバツイチママの毎日〜
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離婚その後

離婚その後

離婚成立後、新生活をスタートしました。
当時、6歳10ヶ月の長女と、1歳11ヶ月の次女を連れて。

片親だからって後ろ指指されないように、
ちゃんと子育てしなくちゃ。
ごく普通の家庭と同じように、
子供には肩身の狭い思いはさせたくない。
髪を振り乱して、疲れたおばさんにはなりたくない。
そんな気持ちでいっぱいでした。

10年後には絶対に笑って暮らすんだ!!
何があっても後悔することはないと確信を持ちながら、
自分が信じた道を進んできました。
時には見栄とプライドで現実を包み込んでいたこともありますが・・・。それも前へ進むためには必要だったのかもしれません。

軌道に乗ったと思えば壁にあたり・・・を繰り返して
気が付けばもう10年を経過していたんですね・・。

 離婚新生活スタート ■

引越しが済んで、離婚届も提出し、新生活がスタートしました。
次女はまだ2歳にもなっていなかったため今までの毎日と変わらずに天真爛漫でしたが、長女は母の心を知ってか知らずか父親の姿がそこにないことには触れてきませんでした。でも、どことなく寂しそうな表情を見せていました。

引越し前には『お引越しをするけれども、パパは来ないのよ』と話をしてありました。パパっ子だった長女でしたが幼いながらにも"離婚する"と言うことを理解していたのかもしれません。

保育園の卒園まではあと数日。
小学校の入学直前で新しい机とランドセル、文房具が揃っていくことが嬉しかったようです。
出来るだけ父親の姿を追い求めない様にと、最初は毎日のように外出したり一緒に遊んだり、近所のお友達の家に行ったりお友達を呼んだりして家に3人で篭っていることは避けました。

離婚前は眉間にシワを寄せて、苦悩に苦しんでいた日々。
お化粧もせず、笑うこともあまりない私でしたが、離婚後はお洒落も楽しみお化粧もして髪も染め、部屋にはお花を飾り、窓を開けてとても優しい気持ちで過ごせるようになっていました。

心配して訪ねてきた方から 『あら!!あなた!!・・・数日前と同じ人とは思えないほど綺麗になったのね〜。本当はそんなに綺麗な笑顔を持っている人だったのね』 と驚かれるほどに私は変わっていたのだと思います。

人の相は心が表れると言います。
離婚当初は本当に自分自身がイキイキしていました。
貧乏はするだろうという予測はしていましたけど、どん底まで行き着いたのだから、これからはどんなことがあってもきっと大丈夫!これからは誰を責めることもできない、自分で作っていく生活に責任を感じながら踏み出した新生活でした。

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 『パパは?』・・・ ■

子供の口から 『パパは?』と言う言葉は出ませんでした。

どうしてパパがいないの?
子供ながらに感じていたと思います。
でも、私が住む地域も子供のお友達の仲にも母子家庭がとても多くて、パパがいないおうちがあまり珍しくない環境でした。

保育園の卒園式、小学校の入学式が目の前になり、そのとき初めて長女の口から 『パパは来ないのかな』と ポツリ。

人前では子煩悩さを発揮していた夫でしたので、子供の行事には今まで欠かさず参加していましたから、子供にとっては初めて「パパがいない」事を実感したのだと思います。

来たいというなら来ても構わないと思っていたのですが・・・。
小学校の入学準備にかかるお金も、子供へのお祝いも夫のほうからは何もありませんでした。
催促して、催促して、ようやく自分の親から少しのお金を出してもらい届けに来たくらいです。自分から子供へ・・・やっぱり何も出来ない人なのだなぁと思いました。

そんなことで、子供の行事だけにのんきに一緒に肩を並べて行く気持ちにはなれず、長女には申し訳ないけれど、私一人で出席しました。これが離婚ということなんだろうと思うのです。

こんなことにも子供には慣れていってもらわなくては・・。

もう、パパとはさようならなんだよ・・。

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 養育費の取り決め ■

離婚して1ヶ月ほど経ってからようやく夫のほうから養育費についての回答が来ました。
私が出した条件は、「今までの結婚生活を振り返り、反省するならば、今後のこちらの生活は保証すること」
つまり上限なしで月の生活費を丸々送って欲しいと言いました。

最低でも、マンションの家賃と食費くらいは不自由させないでくださいと。これまでどれだけそのことで苦しんで来たのか、そこを反省するなら償ってくださいと。

次女がまだ保育園に入れていなかったので私は仕事に出ることが出来ず、児童扶養手当も4ヵ月後にならないと支給されません。保育園側も、次女の無呼吸が完全に治癒されていないとお昼寝のときに何かあったらと多少拒み気味だったのです。

夫から毎月20万を養育費として支払うと話がありました。
家賃が10万円近かったのでそれでもやっとな金額ですけど、給料から借金の支払いを除いてほとんどを支払うということで和解しました。

私の勉強不足から、このときに公正証書を作成していなかったのです。口約束で取り決められた養育費には何の効力もないことを数年後に知ることになりました。

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 時は金なり ■

極力、子供と一緒に過ごす時間を作りました。
生まれてから今日まで、長女には辛く当たってきました。
毎日の生活のストレスから自分のイライラを長女にぶつけることが多かったのです。次女が生まれて小さな命が一生懸命生きてること、自分の子供の命が奪われる恐怖、子供を愛する気持ちを目覚めさせてくれました。
その気持ちを、1から長女に注いで行きたいと思ったのです。

今の時間は今しか持てない。
今の長女のこの姿は来年はもう見れないかもしれない。
今まで見て見ぬ振りしてきた長女の成長を一つ残さず見つめて行きたいと思いました。

仕事帰りに急いで買い物に寄って、暗くなった部屋でひとりで待っている長女を思い、次女を保育園に迎えに行ってから自転車を漕いで帰宅します。

貧乏していましたが、私は時間とお金を引き換えに、安いスーパーをハシゴする賢いママにはなれませんでした。
近所の方が、「今日はあそこのスーパーで卵が100円だよ」と教えてくれても、100円の卵を買いに1時間かかるなら、10分で買える距離のところで定価で買っても1分でも早く子供が待つ家に帰りたかったのです。

私が停める自転車の音を聞いて玄関に走ってくる長女が持って帰ったスーパーの袋を開けて小さなお土産を見つけて嬉しそうにしている顔が私の疲れを飛ばしてくれました。

一緒に台所に立って、危なっかしい手つきで包丁を持ってお料理を手伝ってくれました。私は次女を抱きながら包丁の使い方を教えて、学校であったことなどをたくさん話したり、一緒にテレビゲームをやったりしながら夜はのんびりと過ごしました。

こんな時間が持てるのも、時をお金に代えて、時間短縮の生活を心がけてきたためと思います。でも、そのためにうちの食費は結構な金額が出て行ったはずですが・・・。

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 就職難 ■

離婚をしたとき私は28歳でした。
1年ほど働かずに居ましたが、保育園に行っている子供がいると何もしないわけにはいきません。収入も多少はプラスしないといけません。

最初は近所の内職をもらって自宅でシャーペンやボールペンを組み立てる細かい仕事をしていました。でも、そこの内職担当の人が怪しい動きをしてきたので辞める事にしました。
私がバツイチだと知ると、家に入り込もうとするのです。
バツイチって言うだけで鼻の下を伸ばしやがって!!

その後、友人から紹介されて24時間風呂の販売を始めました。
本部が横浜にあり、時々会議や集会に出なくてはなりません。
話を聞くごとに「マルチ商売」の裏側を知り徐々に身を引いて行きました。売れれば大金が確実に入りますが、上階級の方が自分の懐に入る金額だけを想定して仕事を催促してくるので嫌気がさしたのです。

そんなことをしながら1年経ちました。
養育費も徐々に約束の金額から落ちていきました。
そろそろ本格的に仕事をしなくてはやばいなぁと考えて仕事探しを始めました。元々お金にはだらしない夫でしたから、先は見えていました。早いうちに手を打たなくては。

私は30手前になりました。
まだ20代。年齢制限もさほど気にすることなく、最初の仕事はすんなり決まりました。
でも、そこで勤め始めて半年を過ぎたころから次女の体調が悪くなったのです。気管支炎と肺炎を繰りかえして保育園を休みがちになりました。職場からはいい顔をされなくなりました。

考え抜いて退職。

30過ぎました。
でもまだ、仕事を探せば案外すんなりと採用が決まりました。
子供が調子よければ職場のいじめにあい、仕事が気道に乗れば子供が調子悪くなる。

その度に仕事を変わるようになりました。
年齢が上がるたびに就職の難しさを実感するようになりました。
年齢だけではなく、子供の預け先がないこともネックになりました。「お子さんの年齢はいくつですか?」「ご近所にご両親はいますか?」言わずと知れた質問に・・・。

ここが一番、母子家庭の落とし穴なのかなと感じたのです。
生活のために働くのに、働く場所がない。
何もスキルのない私が、一番苦労した部分です。

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 手抜き家事・手抜きママ ■

本格的に仕事を始めて、今までのようなのんびりした時間ともサヨナラです。保育園の送迎も会社に間に合うようにバタバタと時間が経過します。
布団を干せるのもお天気が良い休日だけ。
洗濯物も必要なものだけ毎日やって、あとは週に1度まとめてやります。掃除も見えるところだけササッと片付け、座れる場所があればイイヤくらいに雑然としていきました。

何かの景品で貰った布団乾燥機が梅雨時期はとても役に立ちました。小さいころのストレスからか、長女は小学生になっても時々夜尿が続いてました。そんなときも布団乾燥機は活躍してくれました。

毎日頑張って掃除しても、小さな悪魔たちがあっと言う間に散らかしてくれます。お絵かきをしているかと思えば、いつの間にかはさみでチョキチョキ。紙吹雪が部屋に舞っています。

物を食べさせれば、粉々になった固形物が足に刺さります。
ジュースを飲ませれば、色のついた水溜りができていて・・・。
きりがありません。

掃除は諦めました。こうして私は、食事以外の家事をすっかり放棄しました。洗濯物は、全自動洗濯機のボタンをひとつ押すだけと長女に教え、帰宅するまでの間に洗濯物は干すだけに出来上がっていて、ほとんど部屋干し。

乾いた順にはずしてそのまま着る。

突然誰かが訪ねてきても、お部屋に招くことが出来なくなっていました。週末の休みにまとめて大掃除が日課になりました。

散らかすばかりの子供に掃除を手伝わせる方法は・・・怒鳴る。
「いい加減にせ〜〜や〜〜!!」

この一言で子供はビビリ、ごみを集め始めます。
「おら〜〜!!こんな所に置いておくと、全部捨てるぞ〜〜!」

でも、この方法も、子供がビビッてくれる年齢まで。
ちょっと大きくなると、私の気配を感じて・・・逃げます。
外へ遊びに行ってしまうので、結局ひとりでやることになります。

そんな時は、子供の持ち物をゴミ袋に入れまとめておきます。
戻ってきた子供たちが捨てられてしまうと大慌てで袋を抱えて片付け始めてくれます。鬼母(笑)

そのうち怒鳴ることも疲れて、汚れた部屋でごみに埋まって生活するようになっても、きっと慣れます(笑)
でも、子供たちにちゃんとした主婦のお仕事を教えてあげられていないので、この子達がお嫁に行ったらとっても困るんだろうなぁと、ちょっと反省です。

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 お留守番と姉妹の関係 ■

長女はひとりになることが大嫌いな子だったのです。
小学校から帰って私が次女を保育園に迎えに行って帰宅するまでひとりぼっち。その間、低学年は学童クラブに入って夕方5時まで預かってもらえるのですが、長女はそこへ通うのは嫌がりました。自由がないから。

お友達と遊んでいても、言い渡していた門限5時を守って家で待っていた長女は、いつのころからか自分から保育園にお迎えに行って次女を連れて帰るようになりました。

夏休みの長期の休みには、次女を置いていけと言うのです。
丸1日たった一人でいるのがよほど嫌だったのでしょう。
小学校低学年のころから、次女のお昼ご飯もお風呂もほとんどを長女が面倒を見るようになりました。

最初は心配でしたが、絶対にガスはいじらないこと!として電子レンジで作れる食材を置いて任せることにしました。

次女にとっては、長女も母親のような存在。
5歳の歳の差でこんなにもしっかりと妹の面倒を見てくれる長女に感謝しながら仕事に行きました。

ある日帰宅すると、長女が玄関に出てきて次女が熱を出したと言うのです。それも39度も。ちゃんと寝かせていて、氷枕をして水分補給もさせて、体温計も枕元にあり、私がいつも飲ませていた薬も飲ませてくれたようです。

何時に何度あったと体温を計ったメモも書いていて、いつも私が看病している様子をちゃんと見ていたのだなと感心しました。

いつでも私は長女がいてくれたら安心して少しの間外出をすることが出来ました。いつの間にこんなにしっかりしてくれたのでしょう。次女も長女を頼り、二人仲良く過ごしていたようです。

ちょっとの失敗は大目に見て、姉妹で協力しながらのお留守番を寛大に見守りました。

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 子育ての極意 ■

しつけの基本は、人に迷惑をかけないこと。
人に怪我をさせないこと。
犯罪を犯さないこと。
自分がされたら嫌なことは人にはしないこと。

家族間では、助け合い。 約束を守る。
門限を守る。

これらを最低のルールとして。

私の性格がのんきなのか、我関せずなのか、子供の行動にはあまり口出しをせずに来たような気がします。
叱るときはガツンとやりました。私の言うことが聞けないとき、ルールを破ったとき、馬乗りになって怒鳴り多少の痛みも加えながら・・・。人としてやって良いことと悪いことの区別は最低でも身につけて欲しいと思ってきました。

『母子家庭だから、片親だからしつけが行き届かないのよ。』
そんな風にはなりたくなかったのです。
もし、子供たちがいつか私に逆らって素行に問題を起こすようなことがあってもそれは仕方がないのかもしれないと覚悟はしていました。でも、世間はそれを面白がります。

娘たちには日ごろから言っていることがあります。

『あなたたちが私に対して何か恨む気持ちがあってもそれは仕方ない。でも、いつもどんな時も、私はあなた達の味方で何があっても自分の命と引き換えに守る覚悟で居るから、自分の体だけは大事にするように』

女の子だから、年頃になればいろいろな情報が入ってきて体を使ってお小遣いを稼いだり、出会い系で知り合った人と安易に会って怖い思いをしたりと、嫌なニュースが反乱していました。それが何より心配なのです。

どれだけ愛されて、大事に思われているのかを心から感じて欲しいと願っています。その気持ちが通じたときに、何か気付いてくれたら良いと。

子供と同じ目線に立って、その年齢に沿った考え方を肯定しながら間違った部分だけを訂正してあげることで、子供が納得すれば言うことを聞いてくれるのだなと思います。

頭から何もかも否定せずに居たことで子供の信頼を失わない努力をしてきました。いつの間にか、子供のほうから歩み寄って、私を頼るようになってきたのです。
長女の進路を決めるときも、私の意見を取り入れ自分なりに考えてくれました。そうしてようやく、この春就職です。

長女が言います。
『ママの育て方は良かったよ』 だって。
その言葉が苦労の全てを消してくれました。

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 支払われなくなった養育費 ■

養育費が順調に支払われていたのは、離婚後1年くらい。
その後は徐々に金額が減っていき、3年後には催促をしなくては持ってこない状態になった。

もちろん、子供の行事にかかる資金の加算もなく離婚した年に行った長女の7歳の七五三もその翌年の次女の3歳の七五三にもお祝いの一言もなく、調子よく子供に会いに来ては写真を見て喜んでいたのです。

離婚後5年を過ぎたころからはギリギリ家賃が払えるほどの金額になり、最初の約束の『最低の生活を保証する』話とはかけ離れていきました。

私のパート収入と児童扶養手当だけでは厳しい生活になりました。ある程度はそんなことも予測してはいたのですが、こんなに早い時期に怠るようになるとは。

養育費を滞るようになった原因は、やはり借金のようです。
どうも、懲りない性格の持ち主に自分の離婚の選択は決して間違いではなかったと確信を持ちました。
離婚した当初は、「反省した。家族の大事さを実感した。生まれ変わった気持ちでこれから頑張るから認めてくれたらやり直すことも考えてくれないか」とまで言っていたのに。

そんな安易な感情に騙されることはありません。
「そんな気持ちがあるのなら、一生子供たちにお金を送り続けてください」と。

金額が減っただけではなく、段々と送金もなくなり2ヶ月、3ヶ月と間隔があくようになりました。
離婚して7年目を向かえたころ長女の中学入学のとき。
ほとんど来なくなった養育費のために暮らしは厳しくなって、中学の準備にも私の収入だけではどうしても間に合わない状況になりやむを得ず私も借り入れをすることになってしまいました。
住んでいたマンションの契約更新も重なって、悩んだ末の借金。

自分は責任を果たすこともないのに、中学の制服姿の写真を見せて欲しいと長女に連絡が来たとかで私もいい加減に腹が立ちました。

それからパッタリと養育費は送られてこなくなり、とうとうマンションの家賃も支払いが厳しくなって大家さんから退去の話まで飛び出しました。いきなり追い出されても行き場がないため、その年の夏休みに急遽実家へ身を置く事にしたのです。

実家に越してから数年、連絡もなければ養育費も全くない状況が続いています。切羽詰って借り入れも数度繰り返し、自分の借金も増えてしまいました。

それでも、返済が出来なくなっては二の舞です。
旦那は死んだと思って自分の力で生きていく覚悟を決めました。
年数が経つごとに子供は成長し、働ける時間も増えていきます。
その分、教育費と食費は数倍になりました。
食べ盛りの子供をふたり。そしてきちんと高校も行かせてあげなくてならない。中学生の教育費は、部活や塾にかなりかかります。予想外の出費も一度に大きな金額が出て行くので自分の収入だけではついて行きません。

養育費の取り決めを、口約束で行ってしまったために請求の法的手段がとれず、これが最大の失敗でした。
公正証書をきっちり作っておくことが何より大事です。

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 子供の行事にかかるお金 ■

一生に一度しかない子供の行事。
誕生日、七五三、入学、卒業、運動会などなど。
子供にとっても親にとっても、大事な大事な人生の思い出。

お金がないから、生活が苦しいから、仕事があるから・・・っていう理由で怠ることが出来ませんでした。
人並みに、人並みに。

離婚した直後、長女の保育園卒園。そして小学校入学。
ボレロつきのワンピースは流行を問わない色柄を選んで、もちろん次女にも着せるつもりで購入しました。

離婚した年(平成7年)の11月。長女の7歳の七五三がやってきました。
貸衣装屋さんで一式揃え、着付けと髪結いと写真をセットで依頼し長女自身が選んだ振袖を着て写真を残しました。
着物以外の髪飾りは気に入ったものを購入しました。

その翌年(平成8年)次女の3歳の七五三。
長女の七五三を撮影した同じ貸衣装屋さんで準備しました。
私の憧れだったはかまを着せて、 3歳の割りに背が高くしっかりした体格の次女にはよく似合って大成功でした。

平成12年次女保育園卒園、小学校に入学。
長女が来た同じボレロ付きのワンピースを着ました。

平成12年11月、次女7歳の七五三。
女の子の七五三はこれで最後なので、雰囲気を変えていろいろな衣装やポーズが撮影できるスタジオタイプの貸衣装屋さんを選びました。予算の都合で振袖とドレスの2ポーズだけでしたが、たくさんのショットの中からお気に入りの写真を選べるのが良かったです。本当はここで十二単なども着せたかったのですが・・・(笑)
七五三の予算は、どれも10万円くらい。これが私の精一杯です。

平成13年 長女中学入学
中学の仕度には、制服や決められたかばん、靴、体操服など、全てそろえて20万弱かかりました。でも、小学校と違い、初めて制服姿を見たときは成長したことを実感してかなり感動でした。

平成16年長女高校入学
受験ではかなりヒヤヒヤしましたが、無事に公立高校に入学です。高校受験までの塾代、入学志願書の作成代金、受験料、入学金、制服や諸々そろえるためにかかった金額は・・・。
塾では夏期講習、冬期講習のたびに10万円近い金額がかかり、受験から入学までには40万円ほどかかりました。
市の母子家庭援護課で奨学金を受けて入学までにどうにか準備を整えることが出来ました。私立は到底私の甲斐性では無理なので、うちは公立1本きりの受験でイチかバチかの賭けのような高校進学となりました。

平成18年次女中学入学
大体の予測は出来ていたので準備も順調に整いました。
予算も長女のときとあまり変わりがありませんでした。
スカートをほとんど履いたことがないスポーティな服装を好んでいた次女が制服のスカートを履いたとき、ちょっと違和感感じましたけど、やっぱり女の子だなぁと感動でした。

毎年の誕生日には、たくさんの料理を作り、ケーキを買ってバイキングのように楽しんで家族でお祝いしました。
10歳、15歳と5年刻みの節目にはちょっと豪華にプレゼントも弾んで記念に残るものにしたいと心がけてきました。

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 子供の急病 ■

次女はよく急に熱を出していました。
持病の鼻血や喘息も頻繁にありました。
保育園からお迎えの要請が来たり、夜中に夜間診療に飛び込んだり、救急車を呼んだり・・・。

長女は血を出す怪我が多かったのです。
歩いていて停まっている車に顔を強打して前歯が欠けたり、学校で掃除の時間に転んで唇を切ったり、自宅で食器を洗っているときに割れたコップで指をグサリと切ったり。

その度に会社を早退したり、休んだり・・。

ひとりで子供を育てていると、心配なことがたくさんありすぎます。看てあげる人が私しかいないため、目が離せない時は買い物にも行かれません。次女が具合悪くなったときは長女が助けてくれましたが、長女が具合悪くなるとお手上げです。

長女が次女を自転車に乗せてふたりで買い物に出かけていったとき、次女がタイヤに足を巻き込まれて取れなくなり、レスキューを呼んだ事もありました。幸い、足に異常はなくヤレヤレだったのですが・・・。

心臓が何個あっても足りないくらいドキドキされられてきました。
繰り返しているうちに、私も随分と図々しくなったものです。ちょっとやそっとのことでは動じなくなってしまいました。

でも、高校生になった長女が車とぶつかって事故を起こしたときはひやりとしましたね。グンニャリ曲がった自転車の車輪を見たときは震えが止まりませんでした。
日ごろから、携帯を触りながら自転車に乗ってはいけないと言っていたんですけど、メール読んでいて周りを見ていなかったようです。転んだときに腰を打った程度で大きな怪我はありませんでしたが、どんなに親が気をつけて心配していても、子供の行動は見えないところでは止められないのが怖いです。

子供の安全を守るために、うちでは小学生のころから携帯を持たせていました。それを「贅沢だ」と言う人もいましたが、いつでも子供と連絡が取れる方法を考えて、緊急事態に備えて携帯を持たせていることで親子の安心に繋がるのなら決して贅沢とは思いませんでした。
子供を守る手段として、必要善の支出です。

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 職場との関係 ■

子供の世話を頼める環境がないために、学校行事や子供の病気では休みをもらうしかありませんでした。
子供が小さいうちは本当に繰り返し、順番に熱を出し、月の半分も出勤できないこともありそれはそれは嫌味を言われたものです。まぁ。。当然ですけど。

きつい人は直接言ってきます。
『子供って言えば休めると思ってるの?』

そうでなければ、段々と私に対する態度が変わってきます。
休んだあとに出勤したときの、職場の人の様子が・・・挨拶すらしてくれないことも。
そしてそれがいじめに繋がってくるのです。悪口を言われたり、仕事上の嫌がらせも始まりました。

月曜日から金曜日のフルタイムのパートではどうしても出勤を続けることが出来ず、私はシフト制の会社を選ぶことが多くなりました。でも、シフト制の会社は、土日も含めての出勤があります。
子供を置いて土日に出勤することでも随分悩みました。

または、日中は家に居られる夜間の仕事をしてみたり、職場選びではかなり試行錯誤の数年でした。

子供が大きくなってくれば解決できることもあります。
多少の熱なら学校を休めませて、寝かせて出勤することもありました。土日に私が仕事に出ても子供も徐々に慣れていきます。

職場には他にもシングルのママは居ましたが、大概は子供の世話を実家に託す方が多く、私のような環境を理解してもらえることは少なかったのです。

職場に家庭を持ち出すのは良くないことは分かっていました。
でも、子供を守るのは私しか居ない。そんな狭間で居づらくなった職場を転々とし、行き場を失って途方に暮れたこともあります。そんなときが一番、「離婚したあとの生活って大変なんだなぁ」と実感する場面でした。
仕事(収入)を失うことが何よりの致命傷なのです。

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 ゴキブリ退治と蛍光灯の交換 ■

離婚後の生活で、男手がないことに何の支障もありませんでした。割りに何でも自分で出来てしまうのであまり不自由は感じていなかったのですが・・・。

どうしても出来ないことがふたつ。
ゴキちゃんと対面したときと、蛍光灯の交換。
蛍光灯は、どうしても割れそうな気がしてキツキツのカバーにはめ込むのが出来ないのです。

蛍光灯は切れそうな状態がわかるので、ご近所のお友達に頼んだり、彼が来たときに交換してもらったりとどうにかなりました。

でも・・・!!ゴキちゃんは突然現れます。
離婚前、旦那が役に立ったのはこんなときだけだったなぁと。

お隣の家が害虫駆除の薬を使ったときにうちにワンサカとゴキちゃんが逃げてきたことがありました。どうも頻繁にゴキちゃんが出るなと思って聞いたら 「バルサンたいた」と笑って言われてしまったのです(-_-;)

ゴキジェットを常に手の届くところに置いて、ゴキちゃんと遭遇したら、まず悲鳴。長女が飛んできたところにゴキジェットを渡し、私は遠くから「ほらあっち!わ、わ、わ、 あっち行ったよ!」と口だけ出し逃げます(笑)

ゴキちゃんが訪問してきたときは、親子3人でワーワーギャーギャー言いながら絶命したゴキちゃんを・・・さて誰が片付ける??
軍手をして、何枚もティッシュを重ねてビニール袋の中からつかみ、なるべく見ないように見ないように・・・。

ゴキブリ退治だけが私の弱点のようです。

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 世間の目 ■

住んでいる地域や、それぞれの環境から見る目はまったく違います。東京は、それぞれ自立した家庭が隣りの家の人の顔も知らないでいることが多く、周りをどうこう言う人も少ないのですが、でも職場の中にはいろいろ言う人もいました。

「どうして離婚したの?」
そんな質問は必要でしょうか。嫌なことを思い出させるだけです。

「子供の面倒はちゃんと見てるの?」
どうゆう意味でしょう。片親だからちゃんと育てられるのか?と言われてる気がします。

「生活はどうしてるの?養育費は貰ってるの?」
生活に困っていると言ったら、寄付でもしてくれるのですか?

「(子供の世話を)ご実家に頼んだらいいのに」
幸せで仲良い家族ばかりではないのです。「母は亡くなりました」と言うと返事に困っている場面がたくさんありました。

「お付き合いしてる人はいるの?再婚はしないの?」
居たらいたで「男が居ないと生きていけない?子供のことを考えなさいよ」などと言われ、居なければいないで「それで幸せ?」などと言われる。
第一、再婚ってのはお付き合いする相手が居ないと始まらないので、いきなり再婚だけを求められても・・・。男性と付き合うのはダメだけど、再婚はしなさいよと難しいことを言われたこともあります。
この場合の「お付き合い」とは、コロコロと男の人を変えて自分の気まぐれだけで付き合う(遊ぶ)イメージなのだなと解釈しました。

離婚なんて考えたこともないような仲の良いご夫婦の奥様に限って、こんな質問ばかり飛び出します。

実家に来てからは、ご近所は私が子供のころから知ってるオバサマ方が大半なので「出戻ってきた」ことに興味深々でした。
実家に戻ったころはすでに離婚して7年ほど経っていたのだけど、それを知らないからつい最近別れてきたのだと思い込み励ましてくれるのです。

「人生いろいろあるけど、これから!これから!」
「戻ってきて、お父さん喜んでるでしょう?娘がそばに居るのが一番なのよ」
「恋はしなさいよ!!女はいつまでも綺麗で居ないとだめよ」
「女は捨てなきゃダメよ!子供のために母親で生きればいいの!!」

会う人会う人、まぁ、いろいろな言葉を投げてきてくれます。

そんなにバツイチって珍しいんでしょうか・・。
田舎ではあまり居ないですから・・。確か、近所に離婚して実家に戻ってきた娘さんが居るらしいのですが、何度か姿を見ましたけど全く外に出ないのか、ほとんど帰ってこないのか、見かけないです。こんなご近所じゃ嫌になりますよ・・・。

私は堂々と、彼を家に招き、二人で肩を並べて出かけ、スーパーの買い物袋を下げて帰ってきます。
子供たちとも一緒に出かけたり、ワンコと庭で遊んだり。
すかさず、ご近所の方が玄関から出てきたり、窓が開いたり。
様子が気になって仕方がないようです。

子供もしっかり育て、ドラマで見るような不良にはなりませんでした(笑)片親だから、仕事で子供に目が届かないからと心配されるようなこともなく無事イイコに育っています。
それはそれで、見ていて面白くないのでしょうか。

「おねえちゃん、昨夜帰るの遅かったのね」
「おねえちゃんにも彼氏さん居るみたい?手を繋いで男の子と歩いているのを見たわよ」

ええ、知ってますから。

出戻りってだけで何か事件性を抱えてないと面白くないのでしょうかねぇ・・。母子が玄関の外でワイワイ騒ぎながら3人で外出しようとすると家族以外の方にいつも見送られ。
見張られてる気がします。

「仲がいいのね」

悪くないとおかしいですか?

こんなことは日常で、ついつい自分の愚痴話をしてしまうと離婚したことからを叱咤され、無責任な罵声を浴びることになります。
一般論での理想を語られ、それにそぐわない私の日常を攻め立てる。
「正社員にならなかったことが間違い」
「離婚前から貯蓄はしてなかったのか?」
「甘えた気持ちで泣き言言うものじゃない」
「離婚することの覚悟が足りなかったんじゃないか?」

専業主婦で来た友達に話したのが間違いでしたが・・・。
働くことも経験していない方には分かるはずもないことでしょうが、世の中は甘くないという現実を思い知らされました。

親でさえ、私の生活を見て見ぬ振りなのですから、他人様には到底理解出来ない世界なのでしょう。
人の言葉にいちいち傷付いていたら生きていかれません。

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 壁に行き詰ったとき ■

3歩進んで2歩下がる。
何かの歌の歌詞のようですが、私の生活はまさにこんな感じ。

順調に生活できているほうが少ない気がします。
私の場合は、ほとんどが子供と職場の板ばさみで起きることが多かったのですが。

離婚して最初の3年くらいは、子供の病気と職場への出勤日数の問題で定職が持てませんでした。
子供に問題がなかれば、職場でのリストラ。
自分の体調不良。
急な引越し。
子供の反抗期。
かさむ教育費。
低所得、就職難。
手当ての減額。
年齢制限の壁。

表向きには元気を装っていても、心の中はズタズタでした。
お金がなくなって食べるものに困ったこともあります。
でも、離婚前に比べたらたいしたことではありませんでしたので知恵出し、小麦粉をこねて不恰好なうどんを作り、子供と笑いながら食べたこともあります。

救われたのは子供の笑顔です。
満足な献立でなくても、「ママが作ったものなら何でも美味しい」と言って食べてくれる子供たちが居てくれて、お茶漬けやおにぎりや、ホットケーキでも許してくれて何とかしのぎました。

養育費が途絶え、旦那は行方不明になり、実家に来たら父親の収入が合算され児童扶養手当が支払い休止になって、職も失ってたのですっかり無収入になりました。仕事が見つからず派遣型の日払いのアルバイトなどをしてしのいで来ました。
そんな暮らしが約2年続きました。

その間、中学生になった長女の教育費は数倍に跳ね上がり、父親からは家賃と光熱費の催促があり、学校での教材費や修学旅行の準備など。次から次へと支出は増えていくばかり。

年齢的にも子供は反抗期。生活に苦しいことを知ってか知らずか自分の要求ばかりを訴えてきてお金をせびります。面白くないことがあれば泣き喚き反抗心丸出しでぶつかって来ました。 でも、言いたい事をぶつけてくれることは良いことだと思うのです。心に閉じ込め反発心だけが残ってしまうのが心配だったので、私も本気でぶつかりました。

このころは、父親との確執もあり、娘の反抗期と戦い、生活を支える苦労もあり、何がどうなっているのか分からないような毎日でした。

ホームヘルパーの資格を取り、原付バイクの免許も取得して、千葉の不便な町で仕事を持つために自分が動ける範囲を広げました。 空いた時間でPCの勉強を独学で学び、HTMLの知識を身につけました。

ヘルパーの仕事は、やはり体力と持病の限界を感じ挫折。
生まれつき足が悪い私には、トランスファー(患者を抱いて移動させる)が腰に負担をかけ坐骨神経を痛めて歩けなくなってしまったのです。

自分の体力が落ちていることも承知で、24時間のスーパーに夜間勤務して商品補充の重労働が毎日10時間。ヘロヘロになっても収入は追いつかず、睡眠不足も加わって気分はどん底でした。こんな仕事を続けていくことは、体力的に限界を感じ、自分のスキルアップを図り、PCの学習をしました。
人が出来ないことを専門的に覚えたら、自分の幅も広がる可能性が持てるだろう。

タイミングよく事務職が見つかりました。事務へ進みたかったのです。座ってジッと、コツコツやるのが好きなタイプでしたのでPCに向かうことは苦にはなりません。
PCは超初心者でしたが負けず嫌いの性格が功を奏し、会社で使うExcel、Access、HTMLを勉強しました。お陰で人よりも多少、PCに強くなり、事務として一役買うことが出来たのです。

それもほんのつかの間・・・。
軌道に乗ったかと思った矢先に、社長のパワーハラスメントのマトになってしまいました。どうしてうまく行かないんでしょう。

また2歩下がることに。
あともうちょっと、もうちょっとでゴールが見えそうなときに。
でも今までやってこれたんだからきっと大丈夫。
今より悪い状況はたくさんありました。

大変だったころを思い出し、「あのころ、どうやって暮らしてきたんだろう」と思い返してももうそのときの辛さは忘れています。挫折を繰り返し、死んでしまいたいと思ったこともありますけど、通り過ぎてしまえば、「よくやってきたなぁ」と自分を褒めるだけ。

あっちを向いてもこっちを向いても高い壁に囲まれて生きてきた私ですが、どうにかなってきました。
これからも「どうにかなるさ」でまた3歩ずつ進んで行こうと思います。

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 転職の回数 ■

いったいいくつ仕事を変わってきたのでしょう。
婦人肌着メーカーの値付け・出荷業務
(次女が体を壊し退職)
訪問介護の派遣(家政婦紹介所に勤務)
(まだ介護保険が始まる前だったので資格がなくても出来ました。介護保険が導入されることになり、無資格の人は切られてしまいました)
消費者金融会社の事務・ティッシュ配布
(ボーナス時期になり、ボーナス支給を軽減するためのパート職員リストラ)
カラオケBOXの店員(夜間)
(昼間の事務の仕事が見つかり退職)
大手スーパー系列のカード会社勤務
(会社が都心へ移転、自分も千葉へ引越しが重なり通勤時間2時間を考え退職)

ここで無職期間長くなる。
派遣型の日払いアルバイトを1年くらい続けていた。
千葉では勤務地が遠く、車がないと通えない範囲ばかり。
「車通勤可。自力通勤できる方」こんな条件が応募要項に多い。
年齢制限やPCスキル不足が壁となりなかなか就職ができなかった。

ラブホテルの掃除
(月のまとまった収入を得るため日払いアルバイトを辞めたかった。人様の後片付けは厳しいものがありました)
生命保険会社勤務
(外務員資格を取り、生保レディになる。が、性格上外交は苦手。また不安定な歩合収入では将来の生活設計が出来ず退職)
ホームヘルパー2級資格を取り、老人施設で介護業務
(体を壊し、自分が介護される立場になりそうだったので退職)
24時間スーパーに夜間勤務
(夜9時から朝8時までの重労働。長女の高校入学に向けて教育費がかかり高校入学までと思い始めたが、人手不足で辞められずしばらく続けていた)
オーダーカーテン販売会社に勤務(現在に至る)
(一般事務員として出発。ここでPC業務と自分のスキルアップが図られた。日ごろからPCの勉強をしていたことが活かされ、HTML部門へ移動となったのですが・・・。
社長と折り合いが合わず、パワーハラスメントに遭う。
減給、シフト削減の処置が取られ転職をまた考えています)

細かいことは忘れました。
でも、いろいろ経験しました。
一番辛かったのはやっぱり、ラブホの掃除ですかね・・・。
今でもあと5歳若かったら、今の会社を辞め転職活動しているんですけど、収入はがた落ち、生活が危ない状況になっています。騙し騙しこのまま頑張るか、副業を持って追加収入を増やすか、思い切って転職するか・・・。悩んでいる毎日です。

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 手に職 ■

高卒で、若くして結婚し、子供を持ち、自動車免許も持ってない。なんのスキルもなく世間知らずなままで一家の大黒柱になった。
離婚後は低所得で国からの手当てが必要で、仕事もしなくてはいけなくて、何かの資格を取ろうにも、車の免許が欲しくても、通う時間もなければお金もない。

仕事を選ぶときにまず、PC必須は無理。普通免許も・・ない。
PC持ちたくても、そんな高価なものを買うお金はどこにもなかった。でも、何か手に職がなければ、その業界の経験がなければ、良い条件の仕事に就くことは難しいのです。

ヘルパーの資格を取りました。就職先を探しました。でも・・・。
「1年以上の経験者」が条件なのです。新人は要らないと言われました。
即戦力でないと、今の世の中資格を持っても仕事に就けないのです。最悪・・・。

運よくヘルパーの講習を受けた施設にそのまま就職することができました。講習中も婦長さんとよく話をしていて売り込んでいたのがラッキーでした。こうでもしないと世渡りできません。

でも、結局は自分の体が付いてこず、やめることになったのです。ヘルパーの道は断念しました。せっかく資格取ったんですが・・この知識はいつか何かの役に立てばいいかなと。

施設を辞めて次の仕事を探したときに、やっぱり私は「作業系」の無資格でも出来る職種しかないのだろうと思いました。
でも、いつまでも作業系ばかりでは自分の体力が持ちません。
若いころだったら気合いでなんとかなったことも、段々無理が利かなくなっていたのです。

そのころ、友人から不要になった古いPCを譲ってもらいました。
PCは触ったこともない、全くの素人です。でも、PCを持ったらやりたいことがありました。
HP作りです。

HTML講座のサイトをくまなく見て独学で勉強しました。
ソフトを何も持っていなかったので手打ちでタグを覚えました。
自分はこんなことが好きなんだと確信を持ちました。
PCをいじっている時間がとても楽しく思えました。

これが仕事に出来たらいいのになぁ・・・。
やはり事務として就職したかったのです。

今はPCが出来なくては事務員にはなれません。
最低限の基本は覚えなくては・・と必死で勉強したのです。
子供や彼からも呆れられるくらいに、私は時間があればPCの前に座っていました。

HTMLの基本を取得して就職した会社が、PC中心の業務。
Excelは必須で仕事をしていくうちに難しい表計算も覚えていきました。Accessの構築も始めました。
HTMLの知識を活かして、会社の自社HPの運営も任されるようになりました。

HTMLだけではなく、画像編集なども必要になってきて、PhotoShopも使い出し、SEOも求められ。
仕事で使うPC業務はほとんどをこなせるようになりました。

これも手に職。
きっと、どこに行っても「お任せ下さい」くらいのことを言えるようになったと思います。40年生きてきて、私に出来ることはこれくらい・・。本当は専門的にWEBデザイン勉強したいんですけど〜。

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 離婚した家の子供の気持ちなんか! ■

時々、子供が反乱を起こします。
何が気に入らないのか、何を考えているのかはっきりとは言いません。でも、何かに苛立っているようです。

仕事に明け暮れ、あまり構ってあげられないのは現実で、確かに寂しい思いをたくさんしてきたんだろうと思います。
授業参観にもあまり出席しませんでしたし、疲れて横になって、話しかけられても上の空で返事を返すことも度々あります。

家事もおろそかにして、母らしいことは何もしてあげてこなかったと思っています。最低限の暮らしを守ることが先になって、子供の小さなSOSに気付かないこともあったかもしれません。

反抗的な態度を見せたときに、親子喧嘩をすると 『母子家庭の子供の気持ちなんか分かる分けないよね!?』と長女が何度か言葉にしたことがありました。

「どんな気持ちなのよ?」
・・・答えてくれたことはありません。

どんなことを考えて私に対して何を訴えたいのでしょう。
もし離婚していなかったら、子供たちは幸せだったのでしょうか。私はそうは思えないのですが・・。

確かに経済的には十分ではありませんでした。
欲しいものも随分我慢させました。『友達はみんな持ってるよ!』と泣いてせがまれたこともあります。
でも、たとえ離婚をしていなかったとして、あの旦那がいて、今以上に裕福に暮らせていた保障は何もないのです。

離婚後の夫の暮らしを見ていても、養育費さえ滞り、挙句には行方不明。子供がいくら連絡を取ろうとしても返事のひとつもない状態で、どこが『父親』なの?と思うのです。

そんなことは子供には理解出来ないのでしょうが・・・。
私に恨みのひとつも言いたいのでしょうか。

それでも、長女は離婚当初から「大きくなったらパパのところへ行く」と言っていた気持ちは今でもあるの?と聞いたとき「ずっとママのところにいるよ」と答えてくれたときは嬉しかったです。

母子家庭だからと言う理由で不幸な環境だと子供には思って欲しくないと、満足なことは出来ずとも笑顔が絶えない明るい家庭を心がけてきました。極力手作りの食事を作り、誕生日や日本の伝統行事を祝い、私が母に教わってきたことを娘たちにも伝えて行きたいと。ごく普通の家庭の、ごく普通の親子のように。

これからも反乱はあるのでしょうが、じっくり向き合って成長を見守って行きたいと思います。

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 ストレスと解消法 ■

何もなくてもストレスってたまりますね。
体の疲労、睡眠不足、子供の奇声、仕事のトラブル、思うようにならない毎日・・・。

私のストレス解消法は、まず、とにかく何も考えずに寝る。
子供が騒ごうが、お腹が空こうが、とにかく寝るに徹する。
とりあえず、思う存分寝れたら気分スッキリ。

そしてお風呂に入る。
熱いお湯にジックリ浸かって汗を出す。これでもかってほどに汗を出したら、丁寧に丁寧に体を磨く。アカスリをしてボディローションで潤いを足し、マヨネーズでパックする(笑)
無駄毛を丁寧に処理して、隅々まで洗う。
洗顔も丁寧に、ちょっと高いフォームを使って角質を落とす。
髪にも栄養補給してヘアパックなどしてみる。

お肌がツルツルになったら気持ちが良くなって外出したくなる。
子供を連れて街へ出る。
気分が良いからちょっと奮発してデザート付きでお食事なんかして、子供が行きたがるからカラオケなんかにも出向いてみる。

大きな声で好きな歌を歌って、いっぱい笑って、子供たちの喜ぶ顔を見て、私も大満足。

子供が満足したら、ちょっと自由な時間がもらえたりして、今度は私だけが大人の外出(笑)
そしてまた子供へお土産持って帰宅する。

滅入ったときこそ楽しく過ごす工夫をして、笑っているのが一番です。泣いても笑っても明日は来るから、私はいつでも笑っていたいと思います。

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 苦労は不幸ではない ■

離婚したことは不幸ではありません。
幸せになるために離婚したのですから、苦労もあって当然です。
女がひとりで子供を育てて社会で生きていかなくてはならないのは大変な世の中です。
国は、決して母子家庭を援護してくれません。

自分で幸せを見つけて行くことが大事だと思います。
行き詰っても挫折しても、なぜうまく行かないんだろうとは考えましたが、不幸とは思いませんでした。

自分が決めた自分の人生なので、こんな暮らしをすることになった原因の結婚生活も相手も、それは私にとっての通過点であって不幸な結果だとは考えないようにしています。

「結婚に失敗だったね」 「人を見る目がなかったね」 「男運悪いね」 と色々言われてきました。離婚とは、人生の失敗なのでしょうか。そんな風に言われるたびに、私の生き方その物を失敗と言われてる気がしていたものでした。

だからこそ辛いとき、尚更笑って元気に過ごして、たとえそれが見栄だったとしても自分の心の奥底を隠し、決して他人には辛さを見せまいと強がっていたこともあります。

確かに苦労はつき物ですけど、それを不幸とは思いません。
頑張れば頑張っただけ、楽しいことも待っています。
離婚しなければ分からなかった世の中の仕組みや、人の心なども知ることができました。
自分が一ひと回りもふた回りも強くなって、子供のことを大事に大事にしてこれたのも、今の彼と出会えたのも、全て離婚した結果の私の人生です。

悪いことばかりではありません。
嫌なことはすぐ忘れます。通り過ぎてしまえばなんて事なかったなって思えるのです。
大変だ〜大変だ〜と言いながら11年経ちました。
子供もちゃんと成長していつの間にやら立場が逆転。
私が子供に教わったり助けてもらったりすることも増えました。

苦労した分、小さなことでも何倍も何倍も幸せを感じるから、これからは幸せだけを感じて生きて行きたい。
苦労は不幸ではありません。幸せの原点です。

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